戦後70年、両陛下が激戦地となったパラオをご訪問
戦没者慰霊のためパラオ共和国を訪問中の天皇、皇后両陛下は9日午前、激戦地だったペリリュー島で、日本政府が建立した「西太平洋戦没者の碑」に供花して深々と拝礼あそばされました。
碑のそばで出迎えた同島などでの戦いの生還者の元日本兵らとも面会し、改めて苦労を労いあそばされました。また、両陛下がご宿泊なさったのは、海上保安庁の巡視船「あきつしま」でした。
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・パラオ共和国とは?
パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地だったが、戦後、ベルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。
我が国から多くの人々が移住し、昭和10年頃には、島民の数より多い5万人を超える人々が、これらの島々に住みました。
終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、ペリリュー島をはじめ幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この戦いにおいて日本軍は約1万人、米軍は約1700人の戦死者を出しています。
しかし、ペリリュー島の民間人に犠牲者は一人もいませんでした。
・なぜ犠牲者がいなかった?
民間人の犠牲者がいなかったのは、日本兵が避難させたからでした。ペリリュー島民の老人のコラムからも当時の様子がわかります。
”
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
・日本・パラオ友好橋とは?
6日、両陛下ご訪問に向けて「日本・パラオ友好橋」に日の丸が掲げられました。橋は当初、韓国の建設会社ソシオが安価で建設しました。
しかし1996年、橋は中央部から真っ二つに割れ2名が死亡、パラオのライフラインも切断されました。大統領は、直ちに国家非常事態宣言を発令、「暗黒の9月事件」と呼ばれました。
これに対し、韓国は見て見ぬふり。パラオは財政難で再建は不可能となりました。そこに救いの手を差し伸べたのが日本です。30億円の無償援助により再建、「日本・パラオ友好橋」と名付けられました。
・パラオ共和国とは?
パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地だったが、戦後、ベルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。
我が国から多くの人々が移住し、昭和10年頃には、島民の数より多い5万人を超える人々が、これらの島々に住みました。
終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、ペリリュー島をはじめ幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この戦いにおいて日本軍は約1万人、米軍は約1700人の戦死者を出しています。
しかし、ペリリュー島の民間人に犠牲者は一人もいませんでした。
・なぜ犠牲者がいなかった?
”
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
”
引用:毎日新聞・夕刊
・日本・パラオ友好橋とは?
6日、両陛下ご訪問に向けて「日本・パラオ友好橋」に日の丸が掲げられました。橋は当初、韓国の建設会社ソシオが安価で建設しました。
しかし1996年、橋は中央部から真っ二つに割れ2名が死亡、パラオのライフラインも切断されました。大統領は、直ちに国家非常事態宣言を発令、「暗黒の9月事件」と呼ばれました。
これに対し、韓国は見て見ぬふり。パラオは財政難で再建は不可能となりました。そこに救いの手を差し伸べたのが日本です。30億円の無償援助により再建、「日本・パラオ友好橋」と名付けられました。
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